働いて、働いて、自分の未来を切り開く。社会にも自分にも負けないように、自ら励まし、自ら鼓舞して、一人の闘いを続ける。
>> 続きを閉じる
時には、あなるという仲間がいて、時にはぽっぽという仲間がいる。独りではない嬉しさがまた彼を前に進ませるのだろう。
『花咲くいろは』でもそうだけど、脚本の岡田磨里は高校生という10代で「働く」というのを推奨しているのかな。まあ、どちらも自らの欲望のためではなく、環境がそうなったからという理由で働くという意志が生まれたわけで、何かのために、誰かのために働くことの素晴らしさを強調しているのだと思います。
20代になって、社会人になると給料をもらうことに惰性的な感覚を覚えてしまうので、こういった意欲的に何かに取り組むというのはなかなか出来ないんですよね。まあ、年齢を重ねて家庭を持って養うというのも立派な目標になりますが、10代では体験出来なかった思い出として、じんたんのように何かにひたむきになって汗水を流す姿は、本当、「カッケーんですよ」。
その意味で考えると、過去と現在と未来。年を重ねることに対して今回はスポットが当たっていて、子供の頃の自分と、大人に近づいた自分、そして、大人になるであろう自分を比べた時に、成長することに対して、ためらいを覚えるというか、無邪気に何も考えずに遊んでいた頃の幸せの方が今より優っているような気もする不思議。
その考えでいくと、大人になった時には、そういった昔の感覚がなくなって、幸福感をもたずに過ぎていく不安もあって、生き抜いていくための活力をもぎ取られてしまいそうな感じを受けました。
あの頃は良かったなぁ、が本当に憧れに変わっていて、あの頃に戻ろう、とは誰も言い出さないけれど、「宿海」という苗字で呼んでいたあなるが「じんたん」へと変わり、ゆきあつのじんたんへの敵意は薄れ、いつの間にか、昔のように、先を行くじんたんを見守るゆきあつという、つるこのデジャヴの指摘の通り、超平和バスターズは所々ではありますが、昔の名残を取り戻しつつあります。
それは昔の方が良かったから、昔に戻りたいという後ろ向きな願望からではなく、今という時をそれぞれ受け入れている。それぞれ環境に対抗するために己の人生で闘いつつも、子供の頃に置き忘れたことを、ほんの少しだけ、今という時で実現しようというのが実は前向きだったりしてね。
別にロケット花火に手紙をくっつけて飛ばすくらいだったら、本格的にやらなくても、それなりに妥協点はあると思う。小さな紙切れに何か書いて、市販のロケット花火にくっつけて、飛ばせばいいだけ。造作も無い。他愛もない出来事。きっとそれが嫌だったんでしょうね。
そんな風にして簡単に済んでしまうのが、めんまの願いだったって結果が何か悲しい。めんまのために自分にできる精一杯を何かしてあげたい。いつの間にか、じんたんのそばにめんまがいることが前提になっていて、めんまのために動くことが、今の超平和バスターズの課題でもあり、使命でもあるような感じ。
再結成という宣言はしないまでも、それで結びついている関係を、言葉に出さずとも大事にしている、みんなの気持ちが何か心地いい。まあ、ここにめんまがいれば、また泣いているだろうけどねw。
それでじんたんが働くという話。それを有言実行にすぐに移せるじんたんの器と度胸は意外にもしっかりしている。ブランクや他人の目も社会の暗黙の重圧にも負けない。誰かの為に生きる人間ほど強い。そんな証明。
じんたんが前回言った、自分の為に生きるのも正しい。だけど、誰かの為に自分を犠牲にして、その誰かが喜ぶのを見ることも、自分の為に生きているのかも知れないと思えるようなじんたんの行動に泣けてくる。
そして、そんな姿に文字通り、スポットライトをあてる、めんまのささやかな頑張れという応援。本当は気づかれないように支えてあげられれば良かったんだけどね。
でも、めんまの微力では何かしてあげられることもないし、そのじんたんの努力に気付かないフリをしてあげることが、彼女が出来る一番の支えなのかも知れません。そして、そのサプライズを楽しみにして、皆に喜びの表情を見せることが彼女が今できる最大の感謝なんだろう。
でも、それだけじゃ、何か悪い気がする。気づいていないフリをして、じんたんの為になることを思いついたのが、またも、蒸しパン。それも食べきれないくらい一杯に…。お礼の気持ちはこれだけでも足りないくらい。そんな彼女の気持ちに涙。
じんたんのおばさんの事を思って花火を飛ばせなかっためんまの願い。それを今叶えるためにじんたんは資金を稼ぐために働く。めんまは働くことは知っていたけど、おばさんの為の花火のことは知らない。そんなめんまがおばさんがよく作っていた蒸しパンに帰結するなんてね。
どんだけ、じんたんのおばさんは報われているんだって話ですよね。じんたんは自分の母とめんまの為。めんまはじんたんとじんたんのおばさんの為。おばさんは死んでしまったけれど、忘れることない限り、じんたんとめんまの心の中では今も生きている。人の死は無力と虚無感に襲われるけど、その人のために生きていこうと考える気持ちの強さで人を一回りも二回りも大きくさせる。
そんな風に前向きに生きて行くために、じんたんはめんまと母親を失った悲しみを背負いながらも生きていく。そんな想い。それは時に誰かを励まし、自分自身も強くなっていく。そんな良い話。だけど、その死を糧にして成長する姿を疎んでいる姿を見せた、めんまの母親。「ふざけているわよね」。
でも、その気持ちも無碍に出来ない。忘れまいと心に誓って、思い出と共に心の中でいつまでも一緒に生きていこうとするじんたんと違って、そこまで心が強くなかった、めんまの母親。忘れないことで自我を保てる人間もいれば、保てない人間もいる。悲しみを乗り越えろとは言わない。
でも、悲しみにくれた毎日を送るために人生の残りを消化期間と考えてしまうのも少し哀しい。それだけ愛していたという証明にはならないけれど、彼女の中でめんまという存在が心の中でどれほどのウェイトを占めているかはわからないだけに、心の傷は深く刻まれて、その傷を癒すために必死に忘れようとする。そんな葛藤を邪魔する存在との対立。
どちらもめんまを愛していたという事実がある。それがその後にどう及ぼすかの違いだけで、このような悲しみの対立になってしまうと、めんまでなくとも泣きたくなってしまいます。じんたんには超平和バスターズという仲間に支えられて乗り越えただけに、めんまの母親にもそういう存在がいればいいのにな。じんたんを含めた超平和バスターズが支えになる展開を期待したいです。
時には、あなるという仲間がいて、時にはぽっぽという仲間がいる。独りではない嬉しさがまた彼を前に進ませるのだろう。
働くということ
『花咲くいろは』でもそうだけど、脚本の岡田磨里は高校生という10代で「働く」というのを推奨しているのかな。まあ、どちらも自らの欲望のためではなく、環境がそうなったからという理由で働くという意志が生まれたわけで、何かのために、誰かのために働くことの素晴らしさを強調しているのだと思います。
20代になって、社会人になると給料をもらうことに惰性的な感覚を覚えてしまうので、こういった意欲的に何かに取り組むというのはなかなか出来ないんですよね。まあ、年齢を重ねて家庭を持って養うというのも立派な目標になりますが、10代では体験出来なかった思い出として、じんたんのように何かにひたむきになって汗水を流す姿は、本当、「カッケーんですよ」。
不安な未来、揺れる今、憧れを残した過去
その意味で考えると、過去と現在と未来。年を重ねることに対して今回はスポットが当たっていて、子供の頃の自分と、大人に近づいた自分、そして、大人になるであろう自分を比べた時に、成長することに対して、ためらいを覚えるというか、無邪気に何も考えずに遊んでいた頃の幸せの方が今より優っているような気もする不思議。
その考えでいくと、大人になった時には、そういった昔の感覚がなくなって、幸福感をもたずに過ぎていく不安もあって、生き抜いていくための活力をもぎ取られてしまいそうな感じを受けました。
あの頃は良かったなぁ、が本当に憧れに変わっていて、あの頃に戻ろう、とは誰も言い出さないけれど、「宿海」という苗字で呼んでいたあなるが「じんたん」へと変わり、ゆきあつのじんたんへの敵意は薄れ、いつの間にか、昔のように、先を行くじんたんを見守るゆきあつという、つるこのデジャヴの指摘の通り、超平和バスターズは所々ではありますが、昔の名残を取り戻しつつあります。
それは昔の方が良かったから、昔に戻りたいという後ろ向きな願望からではなく、今という時をそれぞれ受け入れている。それぞれ環境に対抗するために己の人生で闘いつつも、子供の頃に置き忘れたことを、ほんの少しだけ、今という時で実現しようというのが実は前向きだったりしてね。
別にロケット花火に手紙をくっつけて飛ばすくらいだったら、本格的にやらなくても、それなりに妥協点はあると思う。小さな紙切れに何か書いて、市販のロケット花火にくっつけて、飛ばせばいいだけ。造作も無い。他愛もない出来事。きっとそれが嫌だったんでしょうね。
そんな風にして簡単に済んでしまうのが、めんまの願いだったって結果が何か悲しい。めんまのために自分にできる精一杯を何かしてあげたい。いつの間にか、じんたんのそばにめんまがいることが前提になっていて、めんまのために動くことが、今の超平和バスターズの課題でもあり、使命でもあるような感じ。
再結成という宣言はしないまでも、それで結びついている関係を、言葉に出さずとも大事にしている、みんなの気持ちが何か心地いい。まあ、ここにめんまがいれば、また泣いているだろうけどねw。
頑張るじんたん、密かに支えるめんま
それでじんたんが働くという話。それを有言実行にすぐに移せるじんたんの器と度胸は意外にもしっかりしている。ブランクや他人の目も社会の暗黙の重圧にも負けない。誰かの為に生きる人間ほど強い。そんな証明。
じんたんが前回言った、自分の為に生きるのも正しい。だけど、誰かの為に自分を犠牲にして、その誰かが喜ぶのを見ることも、自分の為に生きているのかも知れないと思えるようなじんたんの行動に泣けてくる。
そして、そんな姿に文字通り、スポットライトをあてる、めんまのささやかな頑張れという応援。本当は気づかれないように支えてあげられれば良かったんだけどね。
でも、めんまの微力では何かしてあげられることもないし、そのじんたんの努力に気付かないフリをしてあげることが、彼女が出来る一番の支えなのかも知れません。そして、そのサプライズを楽しみにして、皆に喜びの表情を見せることが彼女が今できる最大の感謝なんだろう。
でも、それだけじゃ、何か悪い気がする。気づいていないフリをして、じんたんの為になることを思いついたのが、またも、蒸しパン。それも食べきれないくらい一杯に…。お礼の気持ちはこれだけでも足りないくらい。そんな彼女の気持ちに涙。
じんたんのおばさんの事を思って花火を飛ばせなかっためんまの願い。それを今叶えるためにじんたんは資金を稼ぐために働く。めんまは働くことは知っていたけど、おばさんの為の花火のことは知らない。そんなめんまがおばさんがよく作っていた蒸しパンに帰結するなんてね。
どんだけ、じんたんのおばさんは報われているんだって話ですよね。じんたんは自分の母とめんまの為。めんまはじんたんとじんたんのおばさんの為。おばさんは死んでしまったけれど、忘れることない限り、じんたんとめんまの心の中では今も生きている。人の死は無力と虚無感に襲われるけど、その人のために生きていこうと考える気持ちの強さで人を一回りも二回りも大きくさせる。
前向きなじんたん、後ろ向きなめんまの母親
そんな風に前向きに生きて行くために、じんたんはめんまと母親を失った悲しみを背負いながらも生きていく。そんな想い。それは時に誰かを励まし、自分自身も強くなっていく。そんな良い話。だけど、その死を糧にして成長する姿を疎んでいる姿を見せた、めんまの母親。「ふざけているわよね」。
でも、その気持ちも無碍に出来ない。忘れまいと心に誓って、思い出と共に心の中でいつまでも一緒に生きていこうとするじんたんと違って、そこまで心が強くなかった、めんまの母親。忘れないことで自我を保てる人間もいれば、保てない人間もいる。悲しみを乗り越えろとは言わない。
でも、悲しみにくれた毎日を送るために人生の残りを消化期間と考えてしまうのも少し哀しい。それだけ愛していたという証明にはならないけれど、彼女の中でめんまという存在が心の中でどれほどのウェイトを占めているかはわからないだけに、心の傷は深く刻まれて、その傷を癒すために必死に忘れようとする。そんな葛藤を邪魔する存在との対立。
どちらもめんまを愛していたという事実がある。それがその後にどう及ぼすかの違いだけで、このような悲しみの対立になってしまうと、めんまでなくとも泣きたくなってしまいます。じんたんには超平和バスターズという仲間に支えられて乗り越えただけに、めんまの母親にもそういう存在がいればいいのにな。じんたんを含めた超平和バスターズが支えになる展開を期待したいです。
あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。 1 【完全生産限定版】 [Blu-ray] アニプレックス 2011-06-29 by G-Tools |