誰もが健康ではなくて、みんな病気なんだ。『普通』という流行病にかかっているだけなんだ。だったら、『普通』を抜けだして自分だけの楽しいセカイに入った方が幸せだよね、というお話。
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くみん先輩のキャラ性は置いておくとして、やっぱりこの作品の核となるのは森夏だったんですね。勇太と六花の二人で見つけようとしていたものを森夏は一人で見つけちゃった感じです。
『中二病とは?』という問題に一番取り組んできたのは森夏だけで、あとは普通の青春を感じているのだと思います。でも、森夏の言葉は一つひとつが重いですね。勇太と六花は恋という罠にハマって抜け出せなくなってしまったけれど、一人で悩みに悩んで色々経験した森夏だからこそ、この課題に取り組んでこれたんだと思います。
「結局、人はいつも何かに病んでいる」という言葉をそのまま捉えたら、恋をしている六花は『ヤンデレ』ってことになりますよね? え、ならない? まあ、そうですよね。
字義通りの言葉ではなく、病気という概念から考えることは長くなりそうなのでしないとして、病んでいるという言葉は何かに夢中になるという意味なんだと思います。
例えば、私はアニメオタクなので、アニメに病んでいると言ってもおかしくないわけで、それが普通かどうかって考えたら普通じゃないわけで、その病気を治したら、何になる? また、別の病気にかかるだろう。
ざっくり言ってしまうと、人が生きたいと思うほどの生きがいが病気なんですよね。日本語が少しおかしいことになっているけれど、何かに夢中になって病んでいる人ほど輝いていますよね。それがノーベル賞ものの研究であれ、演劇に熱心になっている演劇部の部長も同じで病んでいる。
病むことで自分はここにいるメッセージを発信している。ここにいていいんだ、何かを残したいんだ、生きているって感じたいんだ、ただそれだけのことなんですが、それが社会的に大きくても小さくても、自分の価値は自分で決めるわけで、他人から認められなければ、自分で認めて自己肯定をし続けないといけない。
誰からも認められず、自分も認めない人生なんて生きていても廃人と変わらない。夢も希望もハマるような病気も持っていない体が一番悲しいことなんだと。だから、森夏は大きな『中二病』の定義をした。
普通もいわゆる『中二病』ということで、自分の中での『普通』というセカイを創りあげている。その『普通』にとらわれすぎている自分がいたと森夏は納得したわけで、じゃあ、『普通』以外のセカイにいた自分は否定してもいいのだろうか。
過去の自分を黒歴史として恥ずかしいと感じる反面、あの頃の『中二病』セカイで病んでいる楽しさというのは今は感じられるのかどうかって考えると、もしかしたら、手に入れられないもので、昔の自分の方が輝いていたかも知れないって考えてもおかしくないわけなんです。
『普通』ばかりに気を取られてしまい、その『普通』セカイの面白さを感じられない自分がいるわけで、どっちが幸せかって考えると昔のセカイの方が楽しかった、と感じるのって大人の階段をのぼった証拠なんでしょうね。
要はここからが大事で、『中二病』セカイと『普通』セカイ、それ以外のセカイ含めて、自分が一番楽しくて輝いていると思えるセカイって、どれなのかな?って。そう考えると面白いですよね。
『普通』セカイという病気が蔓延している世の中で自分だけのセカイがあるわけで、そのセカイも『普通』セカイに合わせようとしている人たちが多くて、その病気が治ることなく一生を終えるかもしれないのは悲しいことですよね。
だから、結論として『普通』セカイからも『中二病』セカイからも抜けだして、自分だけの新たなるセカイを発見して見つけ出していくということを視聴者たちに促しているような気がします。
その人がその人たりえる存在。オリジナリティやアイデンティティの確立を目指して生きていく人生の素晴らしさ。それを真似して継承していくものたち。そこからやっぱり自分セカイを創造していくんでしょうね。
そういう意味でくみん先輩は、せっかく昼寝大好きっ子で自分セカイが確立されていたのに、六花の『中二病』セカイを継承してしまったが故のアイデンティティの消失がもったいないですね。
でも、後になって六花の本当の思いを勇太に伝えるためという伏線には感動しましたよ。だから、終盤ではいつものくみん先輩に戻っていましたし。前回、六花がくみん先輩と出会った時に話したのでしょうね。
六花の最後の砦、希望の光として。六花、もとい、邪王真眼の使い手になりきったが故にその言葉に重みがあるし、その伝え方も『中二病』セカイのものとして伝え、六花ではない邪王真眼の言葉として六花=邪王真眼の使い手であると証明したかった。
六花が六花である理由を残したかったと考えるとこのセカイも『中二病』って言ってバカにできないですね。
だけど、一番悲しかったシーンは六花が自分のためのセカイをなくして、他人のためのセカイを確立しようとしていたこと。
これは前回もそうでしたが、勇太に恋したために勇太に愛される人物像を創造して、そのセカイにとらわれてしまって六花自身が思っていること愛していること好きなこと全部を捨て去って、そのセカイに固執してしまう。
それはつまらないよね。悲しいよね。涙が出るほど悔しいよね。本当に自分が楽しいと思えるセカイがこの世界にはないのだから。だから、勇太と駅で別れて父親の所へ行った六花は天秤にかけた
。勇太が願うセカイと、母親とおじいちゃんとおばあちゃんが願うセカイ。恋と家族。どちらか選ばないといけない。だけど、駅では勇太は送り出してくれた。家族を選べというメッセージだと勘違いしたまま。だけど、それは間違っている。きっと後悔する。
六花自身はそれがわかっているから苦悩して現実を見つめるために父親の好きな歌をレクイエムとして歌った。六花の中で葬り去った。勇太から言われた通り『中二病』セカイを捨て去った。母親から好まれる娘になりきった。
だから、六花は何かにつけ不器用なんですよね。勇太の創った『中二病』セカイを真似することは出来て、そこから色々生み出していくことは可能だけど、一から何も出来ない。そして、何か一つしか出来ないと思っている。恋も友情も家族愛も仲間も中二病も全て。
それに勇太が気づけなかったのは恋の病にかかって、六花の変化がわからなかった点。いくつもの機会があった。
『中二病』をやめろと言って、母親の弁当箱を渡した六花の拒絶反応。二人で橋の下でおにぎりを食べていた時の六花の「光が走っている」という言葉と「車のヘッドライトの光」という言葉の変化。父親の所に向かって駅で別れる場面。凸守が何度も六花を止めてくれるように懇願した場面。
こんなに一杯あったのに、勇太は何も気づけなかった。彼女の心を守れなかった。それが苦しくて、今からそれを取り戻せるのかどうかもわからない。
それこそ、恥ずかしいでは済まない、一人の人の人生を大きく悪い方向に変えてしまった罪にも似た苦悩。だからこそ、六花が本当に勇太から離れてしまったと感じた場面では泣きそうになりました。いや、泣いてた。
もう、勇太の気持ちもわかるし、六花の気持ちもわかる。これは恋とは違って、一人の人の人生を二人分垣間見ている感じで、これほど胸が痛めつけられることってないと思う。
どうせなら、恋という楽しさとか嬉しさに共感したかった。だけど、それは許さないこの世界が悲しい。どうしようもない。本当にどうしようもない。そんな切なさを感じさせる場面の連続でした。
だけど、そこからの勇太が格好良すぎた。2年後の自分への手紙がこれほど人生を大きく左右することになるなんてね。本当、一般人に成り下がってしまった『中二病』セカイにいない自分が愚かであると、今も昔も感じている。
さて、なら、どちらを選ぶ。普通の『表』か、闇である『裏』か。それを近所のゲーセンでとっただけの何の特別でもないコインで人生を決めてしまうなんてね。
これで表が出たらどうなっていたことか。でも、それこそ自分に課せられた『特別』を信じてコインを投げた。自分にしかできないこと。
選ばれた人間ではないかも知れないけれど、自分だけは六花にとって特別、自分にとっても特別、そんな特別な自分に裏が出ることは運任せだけど、それは運命が導いたコインの必然。
だからこそ、裏が出て闇のセカイへと誘われる。これからも闇のセカイに居続けようと勇気をもって六花を助けにいった勇太が格好良すぎて、また泣けた。
そして、最後の「爆ぜろリアル! 弾けろシナプス! バニッシュメント…ディス、ワールド!」は勇太の口から。いや、ダークフレームマスターの口から。世界が変わらない現実を突きつけるなら、自分たちでセカイを構築すればいい。
それは六花にしか出来ないことだと思っていたけれど、ダークフレームマスターなら出来る。役になりきるというわけではないですが、このセリフを勇太が言うことはないと六花が思っているからこそ、勇太が発した言葉ではなく、ダークフレームマスターの言葉に聞こえた。
昔の勇太を見ていた六花だからこそわかる本当の『中二病』セカイ。それがイメージとして自分の五感を刺激して、また自分の『中二病』セカイが見えた。だからこそ、それが一つの自分なりの幸せとして蘇った。
ここが一番のポイントで、勇太のための六花ではなく、六花のための勇太であるということ。六花は誰かのセカイに合わせる必要なんてなくて、誰かと同じセカイにいてもいいし、六花は六花なりのセカイにいていいってことなんですよね。
だから、不可視境界線の向こうにいる父親に「さようなら」を言えた。言いたいのはただそれだけ。現実に戻ってくる必要なんてなくて、父親の未練が六花の心をトラウマとして縛っているからこそ、『中二病』セカイに逃げ込んだように見えるだけなんですよね。
だから、その縛りがなければ自由にやっていいんですよ。自らを傷つけなくていいんですよ。六花には不可視境界線はもう見えないかも知れない。だけど、六花の父親がダークフレームマスターを通して見えた。父親の「ありがとう」の言葉が聞こえた。それで本当に終わり。
六花の心が解き放たれた瞬間に光が放たれ、希望に満ちたセカイが六花に訪れた。きっと、これから家族とも、森夏や凸守などの友達とも、そして、恋人である勇太とも、誰とでも仲良くなれそうな幸せな六花の未来が見えて最高でした。
最後のナレーションは蛇足かな。どちらかと言うと、勇太と六花だけのセカイを見せて終わりでも良かった気がしました。いつかは六花にも勇太と結婚という本当の契約が出来るといいですね。ずっと泣きっぱなしの最終回でした。勇太に六花、ありがとう。本当にありがとう。
くみん先輩のキャラ性は置いておくとして、やっぱりこの作品の核となるのは森夏だったんですね。勇太と六花の二人で見つけようとしていたものを森夏は一人で見つけちゃった感じです。
『中二病とは?』という問題に一番取り組んできたのは森夏だけで、あとは普通の青春を感じているのだと思います。でも、森夏の言葉は一つひとつが重いですね。勇太と六花は恋という罠にハマって抜け出せなくなってしまったけれど、一人で悩みに悩んで色々経験した森夏だからこそ、この課題に取り組んでこれたんだと思います。
「結局、人はいつも何かに病んでいる」
「結局、人はいつも何かに病んでいる」という言葉をそのまま捉えたら、恋をしている六花は『ヤンデレ』ってことになりますよね? え、ならない? まあ、そうですよね。
字義通りの言葉ではなく、病気という概念から考えることは長くなりそうなのでしないとして、病んでいるという言葉は何かに夢中になるという意味なんだと思います。
例えば、私はアニメオタクなので、アニメに病んでいると言ってもおかしくないわけで、それが普通かどうかって考えたら普通じゃないわけで、その病気を治したら、何になる? また、別の病気にかかるだろう。
ざっくり言ってしまうと、人が生きたいと思うほどの生きがいが病気なんですよね。日本語が少しおかしいことになっているけれど、何かに夢中になって病んでいる人ほど輝いていますよね。それがノーベル賞ものの研究であれ、演劇に熱心になっている演劇部の部長も同じで病んでいる。
病むことで自分はここにいるメッセージを発信している。ここにいていいんだ、何かを残したいんだ、生きているって感じたいんだ、ただそれだけのことなんですが、それが社会的に大きくても小さくても、自分の価値は自分で決めるわけで、他人から認められなければ、自分で認めて自己肯定をし続けないといけない。
誰からも認められず、自分も認めない人生なんて生きていても廃人と変わらない。夢も希望もハマるような病気も持っていない体が一番悲しいことなんだと。だから、森夏は大きな『中二病』の定義をした。
普通もいわゆる『中二病』ということで、自分の中での『普通』というセカイを創りあげている。その『普通』にとらわれすぎている自分がいたと森夏は納得したわけで、じゃあ、『普通』以外のセカイにいた自分は否定してもいいのだろうか。
過去の自分を黒歴史として恥ずかしいと感じる反面、あの頃の『中二病』セカイで病んでいる楽しさというのは今は感じられるのかどうかって考えると、もしかしたら、手に入れられないもので、昔の自分の方が輝いていたかも知れないって考えてもおかしくないわけなんです。
『普通』ばかりに気を取られてしまい、その『普通』セカイの面白さを感じられない自分がいるわけで、どっちが幸せかって考えると昔のセカイの方が楽しかった、と感じるのって大人の階段をのぼった証拠なんでしょうね。
要はここからが大事で、『中二病』セカイと『普通』セカイ、それ以外のセカイ含めて、自分が一番楽しくて輝いていると思えるセカイって、どれなのかな?って。そう考えると面白いですよね。
『普通』セカイという病気が蔓延している世の中で自分だけのセカイがあるわけで、そのセカイも『普通』セカイに合わせようとしている人たちが多くて、その病気が治ることなく一生を終えるかもしれないのは悲しいことですよね。
だから、結論として『普通』セカイからも『中二病』セカイからも抜けだして、自分だけの新たなるセカイを発見して見つけ出していくということを視聴者たちに促しているような気がします。
その人がその人たりえる存在。オリジナリティやアイデンティティの確立を目指して生きていく人生の素晴らしさ。それを真似して継承していくものたち。そこからやっぱり自分セカイを創造していくんでしょうね。
そういう意味でくみん先輩は、せっかく昼寝大好きっ子で自分セカイが確立されていたのに、六花の『中二病』セカイを継承してしまったが故のアイデンティティの消失がもったいないですね。
でも、後になって六花の本当の思いを勇太に伝えるためという伏線には感動しましたよ。だから、終盤ではいつものくみん先輩に戻っていましたし。前回、六花がくみん先輩と出会った時に話したのでしょうね。
六花の最後の砦、希望の光として。六花、もとい、邪王真眼の使い手になりきったが故にその言葉に重みがあるし、その伝え方も『中二病』セカイのものとして伝え、六花ではない邪王真眼の言葉として六花=邪王真眼の使い手であると証明したかった。
六花が六花である理由を残したかったと考えるとこのセカイも『中二病』って言ってバカにできないですね。
自分だけのセカイを築いていいんだよ、六花
だけど、一番悲しかったシーンは六花が自分のためのセカイをなくして、他人のためのセカイを確立しようとしていたこと。
これは前回もそうでしたが、勇太に恋したために勇太に愛される人物像を創造して、そのセカイにとらわれてしまって六花自身が思っていること愛していること好きなこと全部を捨て去って、そのセカイに固執してしまう。
それはつまらないよね。悲しいよね。涙が出るほど悔しいよね。本当に自分が楽しいと思えるセカイがこの世界にはないのだから。だから、勇太と駅で別れて父親の所へ行った六花は天秤にかけた
。勇太が願うセカイと、母親とおじいちゃんとおばあちゃんが願うセカイ。恋と家族。どちらか選ばないといけない。だけど、駅では勇太は送り出してくれた。家族を選べというメッセージだと勘違いしたまま。だけど、それは間違っている。きっと後悔する。
六花自身はそれがわかっているから苦悩して現実を見つめるために父親の好きな歌をレクイエムとして歌った。六花の中で葬り去った。勇太から言われた通り『中二病』セカイを捨て去った。母親から好まれる娘になりきった。
だから、六花は何かにつけ不器用なんですよね。勇太の創った『中二病』セカイを真似することは出来て、そこから色々生み出していくことは可能だけど、一から何も出来ない。そして、何か一つしか出来ないと思っている。恋も友情も家族愛も仲間も中二病も全て。
それに勇太が気づけなかったのは恋の病にかかって、六花の変化がわからなかった点。いくつもの機会があった。
『中二病』をやめろと言って、母親の弁当箱を渡した六花の拒絶反応。二人で橋の下でおにぎりを食べていた時の六花の「光が走っている」という言葉と「車のヘッドライトの光」という言葉の変化。父親の所に向かって駅で別れる場面。凸守が何度も六花を止めてくれるように懇願した場面。
こんなに一杯あったのに、勇太は何も気づけなかった。彼女の心を守れなかった。それが苦しくて、今からそれを取り戻せるのかどうかもわからない。
それこそ、恥ずかしいでは済まない、一人の人の人生を大きく悪い方向に変えてしまった罪にも似た苦悩。だからこそ、六花が本当に勇太から離れてしまったと感じた場面では泣きそうになりました。いや、泣いてた。
もう、勇太の気持ちもわかるし、六花の気持ちもわかる。これは恋とは違って、一人の人の人生を二人分垣間見ている感じで、これほど胸が痛めつけられることってないと思う。
どうせなら、恋という楽しさとか嬉しさに共感したかった。だけど、それは許さないこの世界が悲しい。どうしようもない。本当にどうしようもない。そんな切なさを感じさせる場面の連続でした。
2年前の自分が救った勇太
だけど、そこからの勇太が格好良すぎた。2年後の自分への手紙がこれほど人生を大きく左右することになるなんてね。本当、一般人に成り下がってしまった『中二病』セカイにいない自分が愚かであると、今も昔も感じている。
さて、なら、どちらを選ぶ。普通の『表』か、闇である『裏』か。それを近所のゲーセンでとっただけの何の特別でもないコインで人生を決めてしまうなんてね。
これで表が出たらどうなっていたことか。でも、それこそ自分に課せられた『特別』を信じてコインを投げた。自分にしかできないこと。
選ばれた人間ではないかも知れないけれど、自分だけは六花にとって特別、自分にとっても特別、そんな特別な自分に裏が出ることは運任せだけど、それは運命が導いたコインの必然。
だからこそ、裏が出て闇のセカイへと誘われる。これからも闇のセカイに居続けようと勇気をもって六花を助けにいった勇太が格好良すぎて、また泣けた。
「さようなら」「ありがとう」
そして、最後の「爆ぜろリアル! 弾けろシナプス! バニッシュメント…ディス、ワールド!」は勇太の口から。いや、ダークフレームマスターの口から。世界が変わらない現実を突きつけるなら、自分たちでセカイを構築すればいい。
それは六花にしか出来ないことだと思っていたけれど、ダークフレームマスターなら出来る。役になりきるというわけではないですが、このセリフを勇太が言うことはないと六花が思っているからこそ、勇太が発した言葉ではなく、ダークフレームマスターの言葉に聞こえた。
昔の勇太を見ていた六花だからこそわかる本当の『中二病』セカイ。それがイメージとして自分の五感を刺激して、また自分の『中二病』セカイが見えた。だからこそ、それが一つの自分なりの幸せとして蘇った。
ここが一番のポイントで、勇太のための六花ではなく、六花のための勇太であるということ。六花は誰かのセカイに合わせる必要なんてなくて、誰かと同じセカイにいてもいいし、六花は六花なりのセカイにいていいってことなんですよね。
だから、不可視境界線の向こうにいる父親に「さようなら」を言えた。言いたいのはただそれだけ。現実に戻ってくる必要なんてなくて、父親の未練が六花の心をトラウマとして縛っているからこそ、『中二病』セカイに逃げ込んだように見えるだけなんですよね。
だから、その縛りがなければ自由にやっていいんですよ。自らを傷つけなくていいんですよ。六花には不可視境界線はもう見えないかも知れない。だけど、六花の父親がダークフレームマスターを通して見えた。父親の「ありがとう」の言葉が聞こえた。それで本当に終わり。
六花の心が解き放たれた瞬間に光が放たれ、希望に満ちたセカイが六花に訪れた。きっと、これから家族とも、森夏や凸守などの友達とも、そして、恋人である勇太とも、誰とでも仲良くなれそうな幸せな六花の未来が見えて最高でした。
最後のナレーションは蛇足かな。どちらかと言うと、勇太と六花だけのセカイを見せて終わりでも良かった気がしました。いつかは六花にも勇太と結婚という本当の契約が出来るといいですね。ずっと泣きっぱなしの最終回でした。勇太に六花、ありがとう。本当にありがとう。