終わった。終わっちゃった。でも、終わった感じがしないのは、二人の未来ともう二人の未来がなんだか明るいものに見えてきたので、その妄想で楽しめそうだからなのかも知れません。
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『遠まわりする雛』というのはなんだか面白いサブタイだと思います。最終回にふさわしい今までの全てを表したかのようなサブタイだし、内容だった。今まで一番簡単なミステリーでえるでも解けるような内容というのが何とも嬉しい演出じゃないですか。
気になります、気になります、と奉太郎を問い詰めて知りたい願望を満たしてきたえるにとっては成長の証でもあって、ミステリーとしては簡単ではあるけれど、それをすぐに理解して対応できたえるはやっぱり奉太郎の知恵の力を徐々に身に着けてきたんだと思います。
その証明として二人が同じ答えを出すというのは今まででなんだか微笑ましい光景だった。これって古典部で二人だけ残された中、校内放送での謎を解く練習が実際に出来たという印象もあって、それだけ楽しい時間を過ごしてきて、またえるが望んだものが手に入った。
そういう意味では奉太郎からの旅立ち(雛が飛び出すように)ととるか、それとも、えるは成長しているけれどこれはまだ簡単な謎だからまだえるは雛のままで母親となる奉太郎が必要なのか色々と考えさせます。私は前者だと思うんですよね。
作品全体を通して奉太郎にも解けないような問題は世の中には一杯あるわけで、正解か間違いかなんて答えが出て自らに関わりがなければ頭を使うだけ無駄なので忘れてしまった方がいい。
だけど、もしかしたら、自分や自分の大切な人に関わることであれば、それは答えが出ないと人生の失敗へと転換してしまうことがあるわけで、それは本気で挑まないといけない。
つまりは奉太郎の信念となる、「やらなくてもいいことはやらない、やらなければならないことは手短に」は最後まで貫き通せたわけです。だけど、そこに「やらなければならないこと」が広義になってしまったのが面白い所なんですよね。
やらなくていいこと、やらなければいけないこと、その線引きって客観的に決められないわけで、これが奉太郎しか出来ないことや、摩耶花を救うためとか、里志の期待に応えるためとか、えるからの信頼を崩さないためとか、そんな人間関係が奉太郎に巻き込んでしまったわけです。
人間関係が希薄だった奉太郎がやる気を出したり、出さざるを得なかったり、やる気がなくても解けてしまったりして、それが人と人の繋がりという部分で比重が大きくなってしまったわけなんですよね。
その原因はやっぱりえるにあるわけで、そのえるの頼みが断れないのはえるを好きだからだけではない気がする。一人でいたい、めんどくさい、ややこしい人間関係に巻き込まれたくない、そんなネット社会では初期の奉太郎状態の人って多いと思うんですよね。
確かに人から認められたい願望とか好かれたい願望はあるかもしれないけれど、ネットとリアルの両立とか色々やっているうちになんだかどっちも面倒なので、一人で生きていけるんだとしたら一人でいいんだ、みたいに感じてしまう人がいるかもしれないです。これは別に現代社会を風刺っているわけでもなく、そこに表面化していない問題が発生する可能性を危惧して米澤穂信は書いたわけではないとは思います。
実際はどうかわからない。だけど、えるを通して、その人間関係のしがらみの面白さ(表現はちょっとおかしいかもしれないけれど)があるわけで、えるって謎が気になるというよりも、人が気になっているんですよね。
今回もそうですが着眼点はいつでも人がどうしてそういった言動をしたのか、何を望んでいたのかという部分でそこに人が居なければ、もしかしたら、奉太郎と同じ信念でつながっていたのかもしれないです。
でも、人が気になり始めたのはきっと初期の叔父の問題と生まれと育ちが関係していて、その叔父の叫びを周りに訴えること(摩耶花のおかげでその叫びを文集にして200部も売れたわけだし)である程度は救われたと思ったことである意味親類関係に近い人になったんですよね。
だから、奉太郎という人が気になるし、周りの人がどう考えているのか気になるし、そんな感じで人が好きでたまらない人間なんですよね。
文化祭で色々周りの人が努力して作った証に興味がわきすぎてしまってなかなか部長としての任務をなかなか全うできないという図になってしまったわけで、人が好きになるという意味では知ることで、より一層人を好きになってしまうという最強のスパイラル。
色々な人との付き合いを経て人生の面白さを考えていて幸せ一杯のえるなんだけど、今回言葉に陰りが出てしまったたのは自分はここにしかいれないという束縛はあまり大きな問題でもなかったけれど、奉太郎がいつかどこかに行ってしまうというのがちょっと悲しいと考えてしまったのかもしれません。
別にそれで奉太郎にプロポーズを強いたわけではないんだけど、勝手にその言葉を言いそうになってしまった奉太郎がなんだか可愛くて、そんな簡単に人生決めちゃっていいの?って感じになりましたよ。
だって、えるという人物が好きであったとしても、奉太郎が苦手な人たちがえるの周りにはわんさかいる上に将来はこの場所にしか居られないという道を歩むことになるので、奉太郎が望む自由がきかないかもしれない。
いや、省エネ主義で望むものが少ない奉太郎の自由はえると一緒にいるだけで、大丈夫だと思えてしまうから、自由の定義って難しいですね。そ
んな二人にとってえるの言葉から「大きな問題でも小さな問題でもない」ことが自分たちの目線で見れば人生を決めるかなり大きな問題となるわけで、それを客観的に見て奉太郎に教えたえるとしては自分の価値というものが自分で見定められるように成長したのかも知れません。
それに奉太郎もえるというフィルターを通せば、全てが良い人に見えてしまうような超ポジティブ思考へと変わるわけで、もしかしたら、人を信じることとか人の隠れた愛情とか考えていれば、意外と楽しく生きられるんだろうな、とえるを見ていれば思います。
けれど、生きていると人と会う度に落ち込んだり沈んだりしたりしても、えるの助言とか明るさがあればそんなの気にしないようになるかもしれないので、お父さん、えるさんを下さい。いや、婿養子にしてください。
とまあ、そんな感じで色々と収まる所に収まった感じがして、作中、二人の仲は遠回りしたもどかしさがあったけれど、なんだかその遠回りが桜舞い散る中、綺麗な雛が通るということで、えるの本当の純粋さとか綺麗な心とかを見ることが出来て、ようやく奉太郎の願った人に辿り着いたという意味ではラブストーリーとしては最高の終わり方だったと思います。
でも、まだ二人は若いので、高校、大学とこれから何かを学び、誰かと出会い、人生の素晴らしさを謳歌していくんだろうなぁ、と思うと、なんだか幸せな気分になれますね。本当、最高の物語と映像を作ってくれてありがとうとこの感謝を毎日のように呟きたいです。
『遠まわりする雛』というのはなんだか面白いサブタイだと思います。最終回にふさわしい今までの全てを表したかのようなサブタイだし、内容だった。今まで一番簡単なミステリーでえるでも解けるような内容というのが何とも嬉しい演出じゃないですか。
気になる?
気になります、気になります、と奉太郎を問い詰めて知りたい願望を満たしてきたえるにとっては成長の証でもあって、ミステリーとしては簡単ではあるけれど、それをすぐに理解して対応できたえるはやっぱり奉太郎の知恵の力を徐々に身に着けてきたんだと思います。
その証明として二人が同じ答えを出すというのは今まででなんだか微笑ましい光景だった。これって古典部で二人だけ残された中、校内放送での謎を解く練習が実際に出来たという印象もあって、それだけ楽しい時間を過ごしてきて、またえるが望んだものが手に入った。
そういう意味では奉太郎からの旅立ち(雛が飛び出すように)ととるか、それとも、えるは成長しているけれどこれはまだ簡単な謎だからまだえるは雛のままで母親となる奉太郎が必要なのか色々と考えさせます。私は前者だと思うんですよね。
作品全体を通して奉太郎にも解けないような問題は世の中には一杯あるわけで、正解か間違いかなんて答えが出て自らに関わりがなければ頭を使うだけ無駄なので忘れてしまった方がいい。
だけど、もしかしたら、自分や自分の大切な人に関わることであれば、それは答えが出ないと人生の失敗へと転換してしまうことがあるわけで、それは本気で挑まないといけない。
つまりは奉太郎の信念となる、「やらなくてもいいことはやらない、やらなければならないことは手短に」は最後まで貫き通せたわけです。だけど、そこに「やらなければならないこと」が広義になってしまったのが面白い所なんですよね。
やらなくていいこと、やらなければいけないこと、その線引きって客観的に決められないわけで、これが奉太郎しか出来ないことや、摩耶花を救うためとか、里志の期待に応えるためとか、えるからの信頼を崩さないためとか、そんな人間関係が奉太郎に巻き込んでしまったわけです。
人間関係が希薄だった奉太郎がやる気を出したり、出さざるを得なかったり、やる気がなくても解けてしまったりして、それが人と人の繋がりという部分で比重が大きくなってしまったわけなんですよね。
その原因はやっぱりえるにあるわけで、そのえるの頼みが断れないのはえるを好きだからだけではない気がする。一人でいたい、めんどくさい、ややこしい人間関係に巻き込まれたくない、そんなネット社会では初期の奉太郎状態の人って多いと思うんですよね。
確かに人から認められたい願望とか好かれたい願望はあるかもしれないけれど、ネットとリアルの両立とか色々やっているうちになんだかどっちも面倒なので、一人で生きていけるんだとしたら一人でいいんだ、みたいに感じてしまう人がいるかもしれないです。これは別に現代社会を風刺っているわけでもなく、そこに表面化していない問題が発生する可能性を危惧して米澤穂信は書いたわけではないとは思います。
人間関係のしがらみの面白さ
実際はどうかわからない。だけど、えるを通して、その人間関係のしがらみの面白さ(表現はちょっとおかしいかもしれないけれど)があるわけで、えるって謎が気になるというよりも、人が気になっているんですよね。
今回もそうですが着眼点はいつでも人がどうしてそういった言動をしたのか、何を望んでいたのかという部分でそこに人が居なければ、もしかしたら、奉太郎と同じ信念でつながっていたのかもしれないです。
でも、人が気になり始めたのはきっと初期の叔父の問題と生まれと育ちが関係していて、その叔父の叫びを周りに訴えること(摩耶花のおかげでその叫びを文集にして200部も売れたわけだし)である程度は救われたと思ったことである意味親類関係に近い人になったんですよね。
だから、奉太郎という人が気になるし、周りの人がどう考えているのか気になるし、そんな感じで人が好きでたまらない人間なんですよね。
文化祭で色々周りの人が努力して作った証に興味がわきすぎてしまってなかなか部長としての任務をなかなか全うできないという図になってしまったわけで、人が好きになるという意味では知ることで、より一層人を好きになってしまうという最強のスパイラル。
まさかのプロポーズエンド?
色々な人との付き合いを経て人生の面白さを考えていて幸せ一杯のえるなんだけど、今回言葉に陰りが出てしまったたのは自分はここにしかいれないという束縛はあまり大きな問題でもなかったけれど、奉太郎がいつかどこかに行ってしまうというのがちょっと悲しいと考えてしまったのかもしれません。
別にそれで奉太郎にプロポーズを強いたわけではないんだけど、勝手にその言葉を言いそうになってしまった奉太郎がなんだか可愛くて、そんな簡単に人生決めちゃっていいの?って感じになりましたよ。
だって、えるという人物が好きであったとしても、奉太郎が苦手な人たちがえるの周りにはわんさかいる上に将来はこの場所にしか居られないという道を歩むことになるので、奉太郎が望む自由がきかないかもしれない。
いや、省エネ主義で望むものが少ない奉太郎の自由はえると一緒にいるだけで、大丈夫だと思えてしまうから、自由の定義って難しいですね。そ
んな二人にとってえるの言葉から「大きな問題でも小さな問題でもない」ことが自分たちの目線で見れば人生を決めるかなり大きな問題となるわけで、それを客観的に見て奉太郎に教えたえるとしては自分の価値というものが自分で見定められるように成長したのかも知れません。
それに奉太郎もえるというフィルターを通せば、全てが良い人に見えてしまうような超ポジティブ思考へと変わるわけで、もしかしたら、人を信じることとか人の隠れた愛情とか考えていれば、意外と楽しく生きられるんだろうな、とえるを見ていれば思います。
けれど、生きていると人と会う度に落ち込んだり沈んだりしたりしても、えるの助言とか明るさがあればそんなの気にしないようになるかもしれないので、お父さん、えるさんを下さい。いや、婿養子にしてください。
とまあ、そんな感じで色々と収まる所に収まった感じがして、作中、二人の仲は遠回りしたもどかしさがあったけれど、なんだかその遠回りが桜舞い散る中、綺麗な雛が通るということで、えるの本当の純粋さとか綺麗な心とかを見ることが出来て、ようやく奉太郎の願った人に辿り着いたという意味ではラブストーリーとしては最高の終わり方だったと思います。
でも、まだ二人は若いので、高校、大学とこれから何かを学び、誰かと出会い、人生の素晴らしさを謳歌していくんだろうなぁ、と思うと、なんだか幸せな気分になれますね。本当、最高の物語と映像を作ってくれてありがとうとこの感謝を毎日のように呟きたいです。
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